2017-10-16

バンコク2(タイ)

25年振りにタイのバンコクを訪れた、あまりに変化しすぎていて最早知らない場所に来たのだと思うようになった。
マレーシア経由だったので飛行機で着いたのは昔懐かしいドンムアン空港で今は第二の空港として使われているようだ。
荷物検査も終わり晴れてその土地を踏んだのだが、空港内の風景を全く覚えていなく少し心配になる、しかし確かに文字はあの不思議な形をしたタイ文字である事に全く理解できずも妙な安心感を覚える。
空港からは町の様子が見たかったのでバスにして、一言も一文字も判らなくてもインターネットで見つけた行き方通りに探したら難なくバス停が見つかり、やはり見覚えのない街中で渋滞に嵌ったりしながらも程なくして難なく目的地のシーロム駅に着いた。
シーロム、昔友人の一人が住んでいたエリアだがこんなんだったか?そういえば途中に昔自分が住んでいたスクムビット通りらしき道を見たが全く確証がない。。。

その後数日してそのスクムビット通りの昔の生家に行ってみようと思い、その前に友人達を日曜日とよくフラフラしていたマーブンクロンという昔は屋台の寄せ集めデパートだった(おそらく今は違うのだろう)建物の辺りも散歩する。
「あれ?電車から何度も見たところだ、まさかここまで変貌していたとは。。。」
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ついでによく行ってたマクドナルドも行ってみる、なんとなく違う場所な感じがするものの特徴的かつ変化のないロゴと外観でこちらはなぜか妙に懐かしく感じられたりして、人間の記憶は見た目にあまりにも左右されている事に驚く。
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昔ならそこから迷わずノーエアコン緑の2番バスに乗っただろうが、
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今は高架鉄道が道に沿って通っているのでそちらを使いプロムポン駅付近で降りる、にしてもどこだここは?
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あの昔の風情からどうやったらこんなショッピングモールが建つに至ったのか、これは発展ではなく革命の領域である。。。
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当然脇道専門のバイクタクシー軍団もたむろしていない。
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さて、これ以上驚きはなかろうと当時よく使っていた玄関のある41番通りの方へ廻る、とそこは思ったほど変化がなく唯一昔あった入口角のスーパーが名を変えて「ミラクル」の名を称えてはいたものの、39番入口ほどのミラクルな驚きには至らず想定内のスタートを切る。
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「やっぱ41は地味でいいなあ、ひとつくらいあまり変化のないモノも見たいもんな」と思いながら奥へ進んでいくと、なんと上記クラスの革命的なモノに出会ってしまう。。。目の錯覚かと思われたそれは「居酒屋くろちゃん」?
ちなみに細道奥は「SOBA Q」、おそらくそのネーミングからして97%は日本蕎麦屋確定かと。
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まさか自分の住んでるソイ(道)に蕎麦屋があるなんて!もし昔だったらカセットテープを買わずにそちらに小遣いを廻していたかもしれない、したら音楽にもそんなに深入りしなかったりで人生自体が変わっていたかも。。。
そして目標の生家を訪ねたところ、一見厳しそうな守衛がいたので中には入らず(入れても身分証明とかサインとか聞かれるのが面倒だったんで)外から写真を撮るものの、いい感じで草にブロックされていたので段々どうでもよくなり再度表通りのスクムビットへ戻る。
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最後に少し歩いて、よく行ったスーパーがまだ開店していたのを思いがけなく見つけ、
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ついでにフジスーパーがまだあるかを見てみたら、あまりに当時のレトロな感じで残っていたので郷愁を感じつつも
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横の本屋も見てみたら、やはりコンクリートに埋め尽くされていて一気に25年前から戻った気分がした。
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2017-08-31

バンコク(タイ)

自分の初海外経験は東南アジアのタイである、空港(当時はドンムアン)を出た時の不可解な熱気と匂いは今でも覚えている。
当時はまだあまりに海外事情みたいなものに疎く、タイがどんなところにあるかも知らないくらいだったので、その異質感にビックリしただけ覚えているのではないかと思う。
他はあまり覚えてないけど、空港に父とその知り合いの人たちが待っていて、自分がなぜそこにいるのかあまり自覚できぬまま引越し先に行き、その後もしばらくは自分がなぜそこにいるのかイマイチぴんと来ない状況が続いたような気がする。

その状態のまま日本人学校に転入して、友人が出来始めてからやっと色々な環境の違いを受け入れていったような。
今思えばほぼ全員が多かれ少なかれ転校を経験していたある意味特殊な環境だったからか、周囲も転入生を受け入れ慣れていたようで、事あるごとに
「来て何年?どこから来た?」
「こっちに来て日本よりいいと思うことってあった?」
「やっぱ帰りたいって思う?」
みたいな子供目線での日本との環境の違いを話したりして、なんとか環境の違いを受け入れようとしていたのだろう。
その答えも
「タイでいい事かあ、果物がおいしいとかかな?」
とかだったけれども、温度や匂いといった基本的な段階から100%違和感しか感じなかった当時の自分にはかなり慰めになったような気がする。

好きだったスポーツ中継も見れず、駄菓子も食べられず、家に帰れば言葉の通じないお手伝いさんに水一杯もらうのに躊躇し、家を一歩出ればエレベーター内で会う外国人の住民に挨拶されるのを怖がり etc...
そうなると、部屋にこもって窓から遠くの景色を見るのが趣味になったり(10階だったので、その分エレベーターも乗れば住民に鉢合わす率が高かった)。
とにかくそんな感じで自身初の海外生活はスタートしたわけです。
学校はかなり遠く、スクールバスで30分はかかった気がするが、朝っぱらから異様に暑いのに無空調。
窓は雨が降ってきた時しか閉めないような感じのバスだったので、当然排気ガスと埃にまみれながら登校する。
週末はまだ一人で外に出るのが怖いので、家にこもりゲームをしたり、相変わらず窓の景色を眺めたり。
そうこうしているうちにいちおう今でも親友であるK氏と学校で出会い、ローカルバスの乗り方や経路、屋台食堂や日本人の口にあうローカルスナック菓子の銘柄などを一通り教えてもらう。

Kは6歳からタイにいるのだけど、近所に日本人がいない環境も手伝ってか、読み書き以外のタイ語は問題なかったようだ。
家族は完全移住組だったからか少し郊外に住んでいて、10円、25円(クーラーバス)と安いが番号表記のみで行き先が書いてないローカルバスの使い方も一定の範囲内なら熟知していて、よくタイの旅行記に出てくるような
「バスがもしバス停に止まらないで減速だけをした場合にどのタイミングで飛び乗るか、飛び降りるか!?」
といった事を至って涼しい顔して実演し、教えてくれた。
本人は一般の在住日本人と比べてタイ語が話せたり、タイの様々な事情を知っていることをすごくコンプレックスにしていたので、その分できるだけ仰々しさを排除して「いたって普通の事」として理解して欲しかったのではないかと思う。

バスに乗れるようになると行動範囲も一気に広がるので、週末にマクドナルドでハンバーガーを食べて、デパートや市場をフラフラしたり、映画を見に行ったりし始める。
映画館のシステムも当然Kから教わったが、その頃になると後年花開く悪友振りを徐々に発揮してきて
(とはいっても友人親によってはローカルバスの乗り方や屋台の食べ方を自分の子に教えた時点で、既に警戒すべき悪友とみなされたりしていたようだが)、
上映前に流れる国王讃礼ショートフィルムの上映時に起立清聴しないといけなかったのだが、映画マニアのKはいちいち重箱の隅をつつくような映像批評をして笑わせようとしてきたりする。
そうなると当時はタイ国王の偉大さなどまだ知らないので、その全てが大袈裟に見えてきてしまい、こみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労したのだが、その対処法(彼によると泣いている振りをすればいいらしい)や、最安の100円券を買い途中でトイレに行ったフリして、戻ってきた時に前の方に座る裏技なども追加情報として教えてくれたりした。

2016-05-30

サンパウロ3(ブラジル)

さて、ブラジル最後の日はサルバドールから首都のブラジリア経由でサンパウロから出国である。
サルバドール発が正午、ブラジリアで2、3時間待って、サンパウロに夜着いて、夜中にカタールのドーハ行きに乗る、というこの時点でかなりの時間つぶしが予想される日程であるが、幸いサンパウロでは親戚家に置かせてもらっている荷物を取ったり、会食したりとなかなかいい感じに予定がある。

そもそも旅行には携帯など端末を持っていかないので、待ち合わせなどある時には人一倍緊張感が増してしまう、それだけ普段携帯慣れしてしまっているのだろう。
例えば初日、親戚の人に
「空港から電話ください。もし電話に出れなかったらまず空港から出て、エアポートバスの何番に乗って、「パライゾ」と運転手に言えばしかるべき場所に降ろしてくれますから、そこで電話ください。」
と言われバスに乗ったまではいいが、車中で見た地図のパライゾ地区はかなり広い、バス停がひとつとは思えない。。。
運転手はオーケーと言っていたが、皆なぜか途中の交差点とか小さなバス停とかで降りてゆく。
「空港バスなんだからもうちょっと大雑把に止まらないの?これじゃあどこで降りたらいいかわからない、もしかしたらもう過ぎてしまったんでは。。。?」
と緊張感が最大になったところで大きなホテル前で降ろされる、となぜか連絡できなかったのに親戚の人がいた。
「電話繋がらずすいませんでした、でもね旅行者の人は大体ここなんですよ、あと飛行機着があの時間だと大体ここかなと、まあというわけでようこそ。」
とおっしゃっていましたが、やはり国土の多くがジャングルのブラジルに住んでいると野生の勘が研ぎ澄まされるんだろうか?
なんて思ったりするくらいのドンピシャ具合だった、その国に持つ第一印象はこうやって作られてゆくわけである。

というわけで、最後の日なのでイタリア以外で一番イタリア系の多いと言われる町?サンパウロ自慢のイタリア人街に行き、ピザなどを食べながら旅行の話などをする(アメリカのイタリア系の人が作るものに比べるとややチーズが多めだった様な)。
そして空港行きのバスが出ている大きなホテル前で別れる、しかしバスが来るまでまだ2時間はあるのでホテルのラウンジでビールなんかを飲んでみたりするがホントに来るのかが心配で、ホテル玄関で暇そうにしている女性ポーターに通じないポルトガル語での立ち話がてら入念に確認する。
するといきなりどこからか制服を着たインディオ風の見た目の小柄な男性が現れた。
日本語がうまく、名前はゴンサロといい日本にすんでいたことがあるという、日本人が暇してると同僚に聞いて来たそうだ、自分の部署はどうなってるのか知らないが親切な人たちだ。

しばらく彼の日本での生活を聞いたりしてるうちにそろそろバスが来る時間だが
「玄関前まで来るから大丈夫!」
とポーター連中に言われるままに待つ。
あ、来た、あれかな?そして敷地に入らずにそのまま通り過ぎていった。。。
呆然としている自分、そして焦るポーター連中、一人はパニック状態になりそのまま走って追いかけて行ったが。。。
直後に玄関前に来たタクシーに乗せられ、料金を渡されて、まともなサヨナラも言えずドタバタとその場を去ることになった。
とはいえ治安が良くないのに物価が高く、思ったよりかなりハードな国という印象を持った旅でもあったので、この辺の微笑ましいツメの甘さがブラジルの最後の印象として残ったのはむしろよかったように思う。

2015-01-08

サルバドール(ブラジル)

ペルナンブーコ州都ヘシフェからバイーア州都サルバドールまでバス15時間。
旅程の問題もあり、またもや飛行機にする。
とはいえバスも距離があり実はかなり高い、よって常に変動するブラジルの国内便で運良く安い券が出回ったので素直に怠ける。
さてバイーア、というとなんだか原始的でアフリカン色が強くて、無秩序で、と色々エキサイティングな事を期待していたのだけど、非常にスッキリした近代的な空港が玄関のブラジルで自分が見た街の中でも有数の都会だった。
サンパウロよりは洒落てないけど、リオよりはよほど整理されていて安全な感じがした。

シーズンオフだからか、世界遺産区域であり観光の中心地「ペロウリーニョ」からバスで30分ほどのビーチ区域のキレイな新築ホテルがなぜか一泊4000円だったのでそこにする、もちろん期待し過ぎは禁物だが。
夜に着いたので、慣れない場所での散策はやめて、ホテル裏の大きなショッピングセンターにフードコートを探しに行く。
するとなんとアラビア料理の食べ放題まである(しかし高い。。。)贅沢なフードコートで、もちろん普通のファーストフードもあるから食事場所に困ったときには便利だ。
ブラジルでの昼食はだいたい量り売り(昼のみ)をその辺の食堂で食べるのだが、品数と品質はわかりやすく各店の値段設定に比例している。
大体どこでも旅行中は野菜を採りずらく、量り売りにはサラダから米、パスタ、魚、肉など一通りあるが、夕飯に野菜を食べるのが難しいので、だんだん皿の半分は野菜を盛るクセがつく。
インドでは油断して、下痢ばかり警戒し(当然下痢もあったけど)逆に野菜不足で便秘に苦しむという失態を演じたため、それから漢方下剤を持ち歩くようになったが、ブラジルではほぼ使わずにすんだ。
ちなみに同じインドでも菜食文化中心の南インドでは野菜料理が中央、北インドに比べて安くて助かったのを覚えている。

サルバドールのあるバイーア州ではアフリカからの強制移民が多く、従って宗教的にもアフリカの土着宗教とキリスト教の融合宗教も盛んで、その総本山として有名なボンフィン教会という場所に行くのをトライしてみた。
実は一度間違ってビザ無しでブラジルに行き、その足での帰りの便を空港で12時間待った時に唯一買ったお土産がその教会のお墨付き(?)の布の腕輪なのだけど、そういった経緯もあり是非とも行きたいと思ったのもある。
ペロウリーニョという中心街からバスで行けるらしいので、まだ閉館まで1時間半もあるので前のバーでカイピウォッカを飲む。
すると会計時に明らかに割高な値段を言ってきたので、正規の値段に近くさせるムダな交渉に力を使い、一休みしたのを後悔しつつ早々と目的地に行くことにする。

するとなんとバスが完全な渋滞にはまり1時間半以上かかり閉館。。。
しかしライトアップされた教会はなかなか美しいので見ていると、例の腕輪を売りつけようと老人が接近してくる。
暇だし、もはや油断もしてなかったので、暇つぶしに絡む。
「今は観光シーズンじゃないからホントに安くていいからこのペンダント買わないか?この腕輪も全部あげるから、これならお土産にもいいだろう?あとで願の掛け方も全部教えるからさ。」
そこまでの交渉の段階でかなり面白かったので買う、そして願掛けを実演してもらう。
「出来るだけ、正面扉の前に行って、こう両膝をつくんだ。」
と見せてくれたのがそれまでのインチキ臭さと全く違う真摯な雰囲気だったので、現地人の2面性が垣間見れた感じがしてちょっと得した気分になる(とはいえそれこそパフォーマンスだったのかも知れないが)。

翌日は海岸を散歩していたら急に運動不足な気分になり、ノリで海に入ってみる。
波が強いので皆面白がって上半身だけサーフィンみたいのをやっていたので、やってみたら思ったより体力使うのを発見したので、しばらくやり続けていたら監視員に笛を吹かれたので、ビショビショのまま歩いてホテルに帰る。
夕飯まで外出する気が失せたのでギターを弾いたりする、夕飯は例のフードコートのアジア料理屋でセールになっていた醤油とソースを混ぜたような味付けのYakisobaを食べる。

2014-12-23

ヘシフェ(ブラジル)

ヘシフェとはペルナンブーコ州の州都で電車もかなり網羅されている都会である。
その分ホテルも高いこともあり、オリンダからバスで30分なので、この際通い観光をすることにする。

バス停にいる時にここでもアジア人が珍しかったのか、中学生くらいの女子二人組に暇つぶしに話しかけられる。
「ポルトガル語がよくわからんから、悪いね」
と牽制するが、お構いなしにゲラゲラ笑いながら話してくるから、ここはひとつ会話練習に入ってみる。
片方のポルトガル語がやたらとアフリカンな感じ(知り合いのアフリカ人が話す英語の訛りに似てたので)で聞き取りづらく、もう一人にちょくちょく言い直してもらったりするたびに、なにがそこまで面白いのかゲラゲラ笑われたりしているうちにバスが来たのでさよならする。

途中の道はガタガタで、いくつか渡った川は異臭を放っていていやが応にも都会感を演出してくる。
とりあえずビーチをぶらつくが、リオの海岸から岩山がみえる景色を見たあとなのですぐ飽きる。
歩いて行こうと思うが、人に聞いたら無謀な考えらしいのでバスに乗って旧市街地に行く。
そこはすごく整理されていて、フレボーと言う地元特有の音楽スタイルの博物館まであり楽しめた。
そこからまた1時間ほど歩いて新市街地の方を散歩してみる、雰囲気は物騒だが見てくる人も少なく危ない感じはない。

夜にオリンダに帰ってきて、高台にある屋台村に夕飯の物色に行く途中、打楽器が聞こえてきたので近づいてみる。
すると昼は公園みたいに見えた場所でなにやらウネウネ人影が動いていて、数人が道から見ている。
よく見ると打楽器隊10人くらいをバックにカポエラという伝統舞踊をやっていた。
ラッキーと思いつつも、どうやら皆酒を飲みながらやっているようで興奮度も高く、どことなく不穏というか緊張感も漂っている。
ブラジル人の観光客もあまり近くによって見ようとはしていなく、しばらくは道からみていたが、徐々に数グループが近くで見だしたので便乗する。
間近でみるとやはり酔っているからか、早い蹴りの動作が入るとつい当たったりしてしまっていて(当たると「おお、悪い悪い」みたいに抱き合う)、打楽器と歌の宗教的な感じの繰り返しも妙に興奮を掻き立てる。
しかもなぜかこの後パトカーが来て解散させられてしまう、というどこまでもミステリアスな幕切れであった。