2017-08-31
バンコク(タイ)
自分の初海外経験は東南アジアのタイである、空港(当時はドンムアン)を出た時の不可解な熱気と匂いは今でも覚えている。
当時はまだあまりに海外事情みたいなものに疎く、タイがどんなところにあるかも知らないくらいだったので、その異質感にビックリしただけ覚えているのではないかと思う。
他はあまり覚えてないけど、空港に父とその知り合いの人たちが待っていて、自分がなぜそこにいるのかあまり自覚できぬまま引越し先に行き、その後もしばらくは自分がなぜそこにいるのかイマイチぴんと来ない状況が続いたような気がする。
その状態のまま日本人学校に転入して、友人が出来始めてからやっと色々な環境の違いを受け入れていったような。
今思えばほぼ全員が多かれ少なかれ転校を経験していたある意味特殊な環境だったからか、周囲も転入生を受け入れ慣れていたようで、事あるごとに
「来て何年?どこから来た?」
「こっちに来て日本よりいいと思うことってあった?」
「やっぱ帰りたいって思う?」
みたいな子供目線での日本との環境の違いを話したりして、なんとか環境の違いを受け入れようとしていたのだろう。
その答えも
「タイでいい事かあ、果物がおいしいとかかな?」
とかだったけれども、温度や匂いといった基本的な段階から100%違和感しか感じなかった当時の自分にはかなり慰めになったような気がする。
好きだったスポーツ中継も見れず、駄菓子も食べられず、家に帰れば言葉の通じないお手伝いさんに水一杯もらうのに躊躇し、家を一歩出ればエレベーター内で会う外国人の住民に挨拶されるのを怖がり etc...
そうなると、部屋にこもって窓から遠くの景色を見るのが趣味になったり(10階だったので、その分エレベーターも乗れば住民に鉢合わす率が高かった)。
とにかくそんな感じで自身初の海外生活はスタートしたわけです。
学校はかなり遠く、スクールバスで30分はかかった気がするが、朝っぱらから異様に暑いのに無空調。
窓は雨が降ってきた時しか閉めないような感じのバスだったので、当然排気ガスと埃にまみれながら登校する。
週末はまだ一人で外に出るのが怖いので、家にこもりゲームをしたり、相変わらず窓の景色を眺めたり。
そうこうしているうちにいちおう今でも親友であるK氏と学校で出会い、ローカルバスの乗り方や経路、屋台食堂や日本人の口にあうローカルスナック菓子の銘柄などを一通り教えてもらう。
Kは6歳からタイにいるのだけど、近所に日本人がいない環境も手伝ってか、読み書き以外のタイ語は問題なかったようだ。
家族は完全移住組だったからか少し郊外に住んでいて、10円、25円(クーラーバス)と安いが番号表記のみで行き先が書いてないローカルバスの使い方も一定の範囲内なら熟知していて、よくタイの旅行記に出てくるような
「バスがもしバス停に止まらないで減速だけをした場合にどのタイミングで飛び乗るか、飛び降りるか!?」
といった事を至って涼しい顔して実演し、教えてくれた。
本人は一般の在住日本人と比べてタイ語が話せたり、タイの様々な事情を知っていることをすごくコンプレックスにしていたので、その分できるだけ仰々しさを排除して「いたって普通の事」として理解して欲しかったのではないかと思う。
バスに乗れるようになると行動範囲も一気に広がるので、週末にマクドナルドでハンバーガーを食べて、デパートや市場をフラフラしたり、映画を見に行ったりし始める。
映画館のシステムも当然Kから教わったが、その頃になると後年花開く悪友振りを徐々に発揮してきて
(とはいっても友人親によってはローカルバスの乗り方や屋台の食べ方を自分の子に教えた時点で、既に警戒すべき悪友とみなされたりしていたようだが)、
上映前に流れる国王讃礼ショートフィルムの上映時に起立清聴しないといけなかったのだが、映画マニアのKはいちいち重箱の隅をつつくような映像批評をして笑わせようとしてきたりする。
そうなると当時はタイ国王の偉大さなどまだ知らないので、その全てが大袈裟に見えてきてしまい、こみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労したのだが、その対処法(彼によると泣いている振りをすればいいらしい)や、最安の100円券を買い途中でトイレに行ったフリして、戻ってきた時に前の方に座る裏技なども追加情報として教えてくれたりした。
当時はまだあまりに海外事情みたいなものに疎く、タイがどんなところにあるかも知らないくらいだったので、その異質感にビックリしただけ覚えているのではないかと思う。
他はあまり覚えてないけど、空港に父とその知り合いの人たちが待っていて、自分がなぜそこにいるのかあまり自覚できぬまま引越し先に行き、その後もしばらくは自分がなぜそこにいるのかイマイチぴんと来ない状況が続いたような気がする。
その状態のまま日本人学校に転入して、友人が出来始めてからやっと色々な環境の違いを受け入れていったような。
今思えばほぼ全員が多かれ少なかれ転校を経験していたある意味特殊な環境だったからか、周囲も転入生を受け入れ慣れていたようで、事あるごとに
「来て何年?どこから来た?」
「こっちに来て日本よりいいと思うことってあった?」
「やっぱ帰りたいって思う?」
みたいな子供目線での日本との環境の違いを話したりして、なんとか環境の違いを受け入れようとしていたのだろう。
その答えも
「タイでいい事かあ、果物がおいしいとかかな?」
とかだったけれども、温度や匂いといった基本的な段階から100%違和感しか感じなかった当時の自分にはかなり慰めになったような気がする。
好きだったスポーツ中継も見れず、駄菓子も食べられず、家に帰れば言葉の通じないお手伝いさんに水一杯もらうのに躊躇し、家を一歩出ればエレベーター内で会う外国人の住民に挨拶されるのを怖がり etc...
そうなると、部屋にこもって窓から遠くの景色を見るのが趣味になったり(10階だったので、その分エレベーターも乗れば住民に鉢合わす率が高かった)。
とにかくそんな感じで自身初の海外生活はスタートしたわけです。
学校はかなり遠く、スクールバスで30分はかかった気がするが、朝っぱらから異様に暑いのに無空調。
窓は雨が降ってきた時しか閉めないような感じのバスだったので、当然排気ガスと埃にまみれながら登校する。
週末はまだ一人で外に出るのが怖いので、家にこもりゲームをしたり、相変わらず窓の景色を眺めたり。
そうこうしているうちにいちおう今でも親友であるK氏と学校で出会い、ローカルバスの乗り方や経路、屋台食堂や日本人の口にあうローカルスナック菓子の銘柄などを一通り教えてもらう。
Kは6歳からタイにいるのだけど、近所に日本人がいない環境も手伝ってか、読み書き以外のタイ語は問題なかったようだ。
家族は完全移住組だったからか少し郊外に住んでいて、10円、25円(クーラーバス)と安いが番号表記のみで行き先が書いてないローカルバスの使い方も一定の範囲内なら熟知していて、よくタイの旅行記に出てくるような
「バスがもしバス停に止まらないで減速だけをした場合にどのタイミングで飛び乗るか、飛び降りるか!?」
といった事を至って涼しい顔して実演し、教えてくれた。
本人は一般の在住日本人と比べてタイ語が話せたり、タイの様々な事情を知っていることをすごくコンプレックスにしていたので、その分できるだけ仰々しさを排除して「いたって普通の事」として理解して欲しかったのではないかと思う。
バスに乗れるようになると行動範囲も一気に広がるので、週末にマクドナルドでハンバーガーを食べて、デパートや市場をフラフラしたり、映画を見に行ったりし始める。
映画館のシステムも当然Kから教わったが、その頃になると後年花開く悪友振りを徐々に発揮してきて
(とはいっても友人親によってはローカルバスの乗り方や屋台の食べ方を自分の子に教えた時点で、既に警戒すべき悪友とみなされたりしていたようだが)、
上映前に流れる国王讃礼ショートフィルムの上映時に起立清聴しないといけなかったのだが、映画マニアのKはいちいち重箱の隅をつつくような映像批評をして笑わせようとしてきたりする。
そうなると当時はタイ国王の偉大さなどまだ知らないので、その全てが大袈裟に見えてきてしまい、こみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労したのだが、その対処法(彼によると泣いている振りをすればいいらしい)や、最安の100円券を買い途中でトイレに行ったフリして、戻ってきた時に前の方に座る裏技なども追加情報として教えてくれたりした。
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